二百年の歴史

 山崎工務店の初代が大工として歴史に登場するのは1800年代の初頭、この地に移転してきた長照寺というお寺の文書のなかに見つけることができます。何らかの事情で 願永寺というお寺(現在 由利本荘市 石脇)がこの地を離れ、一旦廃寺となりました。1808年 隣村(松ヶ崎村)にあった同じ宗派の長照寺がお寺を焼失し、檀家の多いこの地に入れ替わるように移ってきました。やがて古い本堂を建替える際に中心的に働いていたことで、その名前とともに「功 これ有り」と記されているのです。 

 この頃の大工は大きな仕事があれば棟梁格の大工が中心となって気の合う大工に
声をかけ、集団で働いていたようです。わが家で内弟子を育て始めたことがはっき
りしているのは明治の4代目からで、通いの職人(1人前の大工)と共に事業場とし
て確立していったのです。物価も安かったでしょうが、当時から戦後にいたるまで
職人の手間賃は安く、月2回程度しか休まないで働かないと暮らしていけなかったよ
うです。

 当時の建物として現存しているのはそのお寺や別のお寺にある山門などしか残っ
ておりませんが、明治・大正期には木造の学校や庁舎など、大規模な木造建築にも
携わっていたもようです。

 

  棟梁と経営者は同じものではありませんが、その“血が騒ぐような仕事”はやはり、 長く存在し続けるものを手がけた時ではないでしょうか。最近は山門を建立したので すが、大小の区別無く“寺院造り”という伝統工法に触れたとき、金物を使わない木組 みの頑丈さに先人の知恵と技に感心させられます。私らはただその知恵と技を学び、 借りているだけなのです。

  大工道具の中にもその知恵の凝縮したものがあります 差し金という定規です。曲 り金とも呼びますが、正規の差し金には表目の尺貫法の目盛りと裏目という角度の付 いた対角線を割り出すときに使う目盛りが付いています。

  若い頃、「差し金の裏表を使いこなせないと一人前じゃないぞ。」と仕込まれまし たが、使えば使うほどに便利で優れた道具であることを実感したものでした。これも 先人の知恵が凝縮したものです。その知恵を前に、私共はほんの200年この仕事を継  続しているにすぎないことに気づきます。常に本物を追い求め、本物だからこそ残り                           うることを肝に、正直であること。それが200年つないできた心(伝統)なのです。